建築として解けているのか?

前です。
羽鳥様・川島様(以下、さん付けで失礼します)のメールについて、追記します。


ダメ建築の議論がありますが、私見としては、自分も福本君が話したような建築の空間は
面白いと思いますし、嫌いではありません。


一方で、建築は複合的なものであり、それぞれの要素が総合的にリンクして結びついている、
これは川島さんの話に説得力があります。

建築は総合的なものである以上、
美観・構造・機能・環境と仮に区分した時、それぞれが解けている必要があるわけです。
それが、単純でシンプルなコンセプトで全てが解けている(少なくともそう見える)際、
非常に魅力的な建築になるのだと考えます。


環境だけで建築が成り立たないのは当然ですが、一方で環境を全く解かない建築も許されません。
金沢21世紀やKAI工房は、美的には素晴らしいと思いますが、
環境として全く解けていない(解こうともしていない)建築としか思えないため、
私は建築として解けていないと判断せざるを得ません。

そのために、後になって当初のよさをなくされるような改修を施されてしまうのであれば、
これは管理者や利用者のみならず、設計者にとっても不幸であると思います。


あと、私はこうした建物の多くが公共建築であることに、より強い疑問を感じます。


近代建築の実験的な建物の多くは、建築家のコンセプトに共感した個人クライアントによって
建てられていたように感じます。
個人の判断として、建築家のコンセプトに共感し、
その建物で暮らしてみたいというのは個人の自由・権利であり、
他人があれこれいう必要はないといわれても仕方ありません。


一方で、公共建築は、発注者が実際にその建物に暮らすわけではありません。
実際に使うのは、閲覧者や学生などの一般の利用者です。
実際に出来た建物の影響を受けるのは、選択した発注者本人ではないわけです。

当然、発注者もプロに依頼している以上、建築として各要素が解けていることを
当たり前としているものと思われます。
そうした中で、全く解けていない要素があるということは、
選択権のない人に本来受けるべきでないデメリットを強制しているのではないでしょうか。


自分も授業で「住吉の長屋」をネタにしますが、個人が好きで住んでいる以上、
特段非難すべき話ではありません(形が単純でシミュレーションに入力しやすいので、便利ですが)。

しかし、ああいった建築を、日本の住宅の標準設計として基準化しようなどということになれば、
手段を選ばず防止するのが当然と思っています。
建物の種類・用途も重要なのではないでしょうか?