中間講評・テーマの再考について(長いです)

寺澤です。
中間講評、いかがでしたでしょうか。
コメントをもらって今後の方針が見えてきた人、そうでない人いろいろいると思います。

中間講評とは、いったん今までやってきたこと、考えてきたことをまとめて発表することで、そこでまた、テーマそのものに立ち返って考え直してみるいい機会なのではないかと思います。

そこでひとつ、すこし「環境建築の脱構築」について考えてみました。「やれ」とのご命令が下ったもので。
知識的な間違いなど多々ありますが、あくまで主題設定を考える際の私見なのでご了承ください。

脱構築」というのはやはり「モダニズム」、またその中で中心教理となる「合理性」の部分を「合理性に依拠しない主題」に置き換えていくことにその意味があると思います。ポストモダニズムの「脱構築」は、その試みにおいて「合理性に依拠しない主題」を持とうと試行錯誤したのですが、「合理性」に置換しうる普遍性を持った何かを提示できなかったことからきわめて内向的になり、失敗したのではないかと思います。

そこで、環境建築ではどうなのか、ということですが。
まず、

↑は「一般的な環境建築」を表したぽんち絵ですが(すみません)、そもそもこの図式化された環境建築の「何」が問題なのか、自分の中で定義できているでしょうか。
前先生が「免罪符のコラージュ」とおっしゃっていました。
多分そのような面が人の批判を浴びる、つまらないといわれる、そういった側面もあるでしょう。しかし、それだけでは、「じゃあまったく同じデザインでも、シミュレーションして適切な分量を設置すれば『ブレイク』してることになるの?」ということになってしまいます。多分そうではないでしょう。

環境建築は、そもそも「何」を発想の根っことしているのでしょう?
言うまでもなく「省エネルギーで快適温度・湿度で暮らせること」。
環境的合理主義の極致にあります。しかし、それ以外に何かあるのでしょうか。建築が存在するためのあり方に過ぎない「省エネルギー」「快適な温湿度」が、そのまま、建築が存在することの意味、主題になってしまってはいないでしょうか。

もちろん、これはこれで意味がある段階だったのだとは思います。「構造」と「意匠」は、いままでも対等な関係にありました。であるからして、構造は建築的主題となってきました。しかし、これまでずっと「環境」は「意匠」「構造」に従属するものだったのだと思います。それが主題化しうる、というだけでも大きなことでしょう。

問題は、「合理主義」にありがちなことですが、「環境的主題」をかなえるために「環境的提案を行う」という風に自己目的化していることです。
そもそも、建築の発端は、雨露しのげる「環境」を作ることから始まって、より快適に暮らせる「環境」、さらに美しさ、荘厳さを味わえる「環境」をつくること、という風に、「環境をつくる」、これがもともと建築の第一目的だと思っています。
そのとき、目指すものをただ単純に「省エネルギー」、としてしまうこと、その危険を顧みようよ、ということなのだと思います。

その中で、世の中のさまざまな環境をとらえたときに「一体どんな環境で人が暮らしたら楽しいんだろう」といったような素朴だけど根源的なテーマに立ち返って考えようよ、ということです。これを、何らかの意味で定量化(必ずしもシミュレーションは必要ないと思います)し、空間として成立させていくことができたらいいのかな、と。

これからの第一歩として、自分の主題としているテーマが
「環境的主題(省エネルギー、といったような)」をかなえるために「環境的提案を行う」というような自己目的化をしていないか、また、
「社会や建築のあり方に着目して、それを「環境」ととらえたときに、なんらかの提案をおこなっているか」
に着目して、いったん考え直して見れば新しい展開が見えてくるのではないでしょうか。

シミュレーションに関しては、すこし強調しすぎたきらいがあります。
一番重要なのは課題の発見だと思っており、それに対してかなり自由な課題設定を行ってもシミュレーションツールによってそれを定量化しうる、という、いわば「語彙を手に入れる」新しさであって、設計を行う目的ではありません。ご注意を。

ではでは、えらそうにしつれいしましたm(_ _)m